新劇の価値は



・以前にも日記で書いている話なんですが、『序』はTV版第壱〜六話の再構成でしたが、細かな差異や演出によって、新劇が「碇シンジの物語」であると強く意識した内容でした。


・それと比較すると旧作は、特に後半に行くにつれて、「碇シンジの物語」というよりも「群像劇の中心にたまたまシンジが居た」話に思えてきます。旧作は最初から最後まで前向きな決心無しに巻き込まれて世界の命運を決める立場に立たされてますが、新劇は、ヤシマ作戦時も覚醒時も槍を抜く時も、そして何より落とし前を付けようとする時も、シンジは自分の意志の元に行動していたと言えます。


・その意味では『Q』がああいった話になったのも、「主人公が不在の物語は描かない」という観点から考えると理屈は通る話ではあります。エンタメとして、それを客が望んでいるかどうかは別問題ですが。


・そんで新劇場版について、改めて声を大にして言いたいのは、『破』が「エヴァは凄い!」というTV放送時と同レベル、あるいはそれ以上の驚きと興奮を与えてくれた作品という事です。


・『Q』があれだけ否が優勢の賛否両論になったのも『破』の満足度と期待の裏返でしょう。『シンエヴァ』の評価基準が『破』と種類が違うのは皆解ってるハズですし、エヴァの美味しい要素を一番高純度で含んでいたのが『破』である事に異論は少ないと思います。


・ちなみに自分の『破』初見時の日記読み返したら「行った。観た。凄かった。」と書いていました。


・良くも悪くも知ってる話の『序』、知ってる話が段々想像を超えて展開していく驚きの『破』と続いて、逆に全く分からない話が段々予測が出来る結末に収束していくのが『Q』だったのかなぁと。第九が流れるとカヲル君の首と胴体は離れ離れになってしまう運命(さだめ)なのです。


・『破』のラストで全身がスクーリンに持っていかれた、マジで自分の形がL.C.L.みたいに溶けて無くなって意識だけが映像に集中していたあの感覚は、本当に一生に一度の体験だと思います。前述した『シト新生』のルフランと、『破』のラストと次回予告の、「この後どうなるんだ…!?」という期待と不安が入り混じった興奮が心にぐっさりとくいこみ、いまだにその衝撃を忘れることができないという同士は多いはずです。


・さて、そんな新劇『序』『破』『Q』の副題に「(NOT)」という表記がありますが、私は『Q』終了時点では

エヴァは繰り返しの物語、あるいは複数の世界線がある物語で、新劇場版はNOT有りと無しの物語が交互に展開されていた」「内容は順番に「序:YOU ARE NOT ALONE.」「破:YOU CAN ADVANCE.」「Q:YOU CAN NOT REDO.」で、次号予告と本編の差は、NOT有りの『破』とNOT無しの『Q』内容の予告だったから」「な、なんだ(以下略)」

と考えていました。


・ところが『シンエヴァ』を観たら考えが変わりまして、新劇場版がNOT有→無→有なのは同じとして、反対の「ALONE」で「CAN NOT ADVANCE」で「REDO」な話ってのは旧作の事だったんじゃないかと思いました。「孤独で、前に進めず、世界のやり直しを選んだ」のが旧作であり、「絆を得たから、前に進むために、巻き戻ってやり直すのではなく新しい世界を選んだ」のが新劇場版だったのかなぁ、と。


・捉え方次第では「他人との繋がりという縛りが無いから新しい世界へ行ける」「他人との絆があるから元の場所を選ぶ」という逆の考え方も出来るっちゃ出来るんですが、「他人との絆を信じるからこそ、新しい世界へも、次の絆を信じる勇気を持って旅立てる」というポジティブな捉え方をすれば、ラストでシンジの居るホームの向こう側にカヲルとレイとアスカが居たのは「違う世界で生きていくけど一緒に居ることで得た物は残る」という意味と捉えて「それらがあったから新しい世界を選ぶことが出来た」とより前向きに受け止められるんじゃないでしょうか。


・捻くれた見方をすれば、シンジとマリは現実世界への卒業、残りはまだ『エヴァ』世界への留年(我々含む)という解釈も出来ますが、せっかくだから皆で気持ち良く卒業しようよ。


・そういう観点から旧作を比較して考えると、『EOE』ラストでシンジは他人の居る世界を選んだのだから「孤独ではない」とも考えられますが、その後でアスカという他人を拒否しようとしたのは、「他人の存在の恐怖」を強く意識させる結末であったとも言えます。それは「人の持つ孤独は続いていく」という事を意味していて、故に旧作は「ALONE」の物語だったと言えるんじゃないでしょうか。


ATフィールドとは「己を形作っているのは他人との境界」というエヴァの物語を成す根源の一つの概念で、作中では「絶対不可侵領域」「心の壁」と言う排他的な意味合いの言葉で使われ、実際にカヲル君(の姿をしたアダム)は『EOE』で「ATフィールドが君や他人を傷付ける」と言っていました。


・そう考えると、『シンエヴァ』の結末は「エヴァの無い世界=ATフィールドの無い世界」への旅立ちを意味するということになるのかと思います。エヴァ的には「ATフィールドが無くなる=L.C.L.化」なのがお約束ですが、『シンエヴァ』のラストは現実に続いているので、ATフィールドが無くてもぱちゃんとはならないので大丈夫。


・実際のところ、現実においては多かれ少なかれ「ヤマアラシのジレンマ」は存在してしまうんでしょうけど、「他人の存在の恐怖」で終わった旧作と、それを乗り越えた未来に向かう姿で終わった新劇の違いは、正に「エヴァの世界を卒業して現実に進んでいく」という意味合いがはっきりと感じられる気がします。


・そう言えば、ヤマアラシは実際は普通に身体を寄せ合っているそうで、別に今更「ヤマアラシのジレンマ」の意味するところが変わるわけではないですが、今後はちょっと使い辛いというか、1回前置きで注釈を入れないと使うのが躊躇われそうです。


・最後にかなりどうでもいい話ですが、全員揃ったポスターで、シンジのインナーが紺で、カヲルのインナーが紫、初号機のカラーが紫で、Mark.06のカラーが紺、という配色は、一部の方々が喜ぶ構図なのでせうか?


序文
旧劇について
旧作と新劇の比較について
綾波について
アスカについて
ミサトについて
音楽について
最後に
オマケ


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